ずっと取っていた手帳のメモ。
父の最期(2017)も兄との別れの時(2017)の事もまとめていたが、母とのこの瞬間についてはいつか記録しておこう…と思いながらも手が付けられず。
今朝、長男から実家に遊びに行っていた頃のことを思い出して届いたラインの内容を見ながらふと母の事を振り返ろうと思い、メモを取り出してきた。
もう14年も前になんだ…

メモを元にその時の感情も思い出しながら文章にしようと思ったが、メモのままに記載しながら補足を青字で追記する形にした。


2003年
【8月1日 金曜日】
〇〇で昼食カレーを食べた後、病院へ。
当初、月曜退院予定であったが、今朝急に腹水を抜かれて動けないんだよね。
月曜日に退院とお父さんに電話しちゃった後だから困ってたんだ。
後で電話してあげてね…と。
元気そうであった。
2時間ほど、話をする。
15時頃、席を立つ。
母もトイレに行きながら「ありがとう」と別れる。
看護婦くる…

母とエレベーターホールで別れた…のを見ていたのか看護師の方が私に駆け寄ってきた。
「ご家族の方ですか?お母様の状態について先生がお話ししたいといことなんです。ご主人様にお伝えいただくことはできますか?」と言われた。



【8月2日 土曜日】
主治医の話を本人交え聞くために皆で行く。
先生遅れる。 少々口論。

元々アルコールに問題のある父は母が家にいないことも手伝って
24時間酒が入っている。
一人イラついて時間に来ないなら帰るぞ!と息巻く。
すると酔っている父に嫌気がさした母が
「もうお父さん来ないで…」
と、言うと
「お前、俺がどんな気持ちでいるのかわかってんのか!」
…と訳のわからない状態。
私もついたまらず
「一番つらいのは母さんでしょう!」
というやり取りがあった。



現状説明。
母、初めて「毎日つらい。早く楽になりたい…」と吐露する。
572へ…

【8月3日 日曜日】
地元の祭りに顔を出した後、病院へ
最初寝ていた。
まくらがずれて目を覚ます。.

靖国(神社)のお守りをあげた時。
「ありがとう、いい想いをさせてもらって…悲しまないでね」
と涙ながらに言われる。

【8月5日 火曜日】
Tさん(知人)のお通夜へ出席後、病院へ行く。
なぜか二人部屋へ移されていた。
ここは窓もなくうるさいし…と言っていた。
お通夜でもらった惣菜を一緒に食べる。
おいしいおいしいと食べた。

【8月6日 水曜日】
19:40頃、Fさん(母の親友)から電話。
母が苦しんでいるとのこと。
すぐ(仕事を)切り上げかけつける。
少し落ち着いていた。
腕をマッサージしてやる。
喜ばれる。
「このまま直也の手の温もりを感じながら死にたい」と言う。

【8月7日 木曜日】
兄貴と合流後、病院へ。
(前に新調した)ウクレレを見せる。
少し朦朧とした感じ。

【8月8日 金曜日】
妻と一緒に行く。
(妻が母と)話して「私がずっといてあげられるよ」と話して感激する。
(母は)「言葉だけでもうれしい」と言う。

【8月9日 土曜日】
22:10 いく
ありがとうと言えず
(メモは以上)

この日、もう会話はできない状態になっていた。
知人がお見舞いに来てくれていたので、病院の玄関先まで見送りに。
そしてエレベーターで病室のあるフロアへ戻り、病室へ向かう廊下へ差し掛かる。

薄暗い廊下に漏れる病室の灯りの元から看護師が駆け出してくるのが見えた…

もしや…
早足で部屋に戻ると、そこには息絶えた母が眠っていた。
メモにはありがとうと言えず…とあるが、
その時、私は母に向かってなんども
「ありがとう」
と声をかけた。

この言葉は聞こえたのだろうか。
枕もとのラジカセから母の好きだった布施明さんのCDがエンドレスで流れ続けていた。


母の死は早すぎた。
2017年には1月に父が。
そして12月に兄を喪った。

末っ子の宿命ではあるが、兄を喪った時に
「もう、これで自分の子供の頃の思い出を共有できる肉親は誰もいないんだ…」
と改めて気づいた。

もっともっといろんな話がしたかったと思う。
なにか本音で語らない家族だっただけに。
今となっては誰もその頃の思い出を語れる家族はいない。

せめて少なくはなった青森の親戚に会いに行こう!
と思っていた矢先に2020年はコロナ禍により実現せず。

一日も早く自由に往来ができる世の中になって、
父の事、母の事、兄の事。
話がしてみたいと思う。