毎年、夏が来ると父から聞かされていた話を思い出す。

・B29
・田んぼの中を弟の手を引いて転げながら逃げ回った
・防空壕はいっぱいで入れてもらえなかった

時折、父の口から戦争中の話をぽろっと聞く事はあったが、その当時の想いとか世の中の事とかそこまで深い話はなかった。

子供だった私からすると父の話しぶりは
「こんなことがあったもんだ。いやぁ大変だったよ…」
くらいの昔の苦労話を聞かされている程度の感じで話していた(ように感じた)
ので、断片的にB29から田んぼの中を走り回った…
という昔話的に覚えていた…という印象だった。

調べれば
青森空襲は昭和20年7月28日。
午後10時37分から1時間11分にわたり焼夷弾による空爆が行われたという。

父は3年前に亡くなった。
その際に父の弟(私の叔父)が葬儀に寄せてくれた手紙に、この体験が記されていて、当時10歳の少年だった父の壮絶な体験を改めて鮮明にイメージすることになった。

その一部を抜粋する。
〜昭和二十年真夏の暑かった青森市の七月下旬の未明、突然の空襲警報のサイレンに起こされ父の指示で玄関横の自宅の防空壕に避難しました。壕から外の様子を覗いたら、北の青森港方向の空は真っ赤に染まっており、爆撃の猛火が次第に家の方に追ってくる様子でした。
小学五年生の兄〇〇は三年生の私の手を握り、親の指示も無いままに勝手に防空壕を飛び出しました。
道路の筋向かいに普段は子供達の遊び場となっていた町内共同用の大型防空壕に二人で突進したけれど、もう中は入る余裕がないからと追い出され、あちこちと燃え出した民家、そして空から降ってくる焼夷弾の中を只ひたすら二人で走り続け街はずれの田園の中の小川に身を沈め冷たさに震えながらも燃え盛り消滅してゆく町を朝まで眺めていたものでした。燻り続ける焼け野原となった町を二人とぼとぼ家の方向に向かったけれど、その途中で見かけた一番先に駆け付けた大型防空壕は跡形も無く崩れて大きな窪みになっており中の人々は全滅となった事が想像出来ました。追い出されていなかったら二人は・・・
〜以上抜粋。

この後は当時の兄弟の絆について記されていました。
時間的な記憶は記録に残されている時間との誤差はあるものの、それだけの夜から明け方に向けての時間の流れがあっという間に感じられたからではないか?と想像する。

この手紙を読んで、もっと父の歴史を父の口から聞いてみたかったと思った。
父はこの後、早くに両親を亡くし大学進学も諦め兄弟たちのために銀行員となった。
アルコールに問題を抱え、そんな父を徐々に私は精神的には遠ざけて過ごしていた。
亡くなる最後まで。

しかし思い起こせば素の時には、この弟の手を引いて焼夷弾の中を逃げ回った父本来の優しさも感じた思い出もたくさんある。

アルコールに頼らざるを得なかった背景
アルコールで断ち切られる家族の心
アルコールが奪う人の心
その怖さも痛感するが、
更には、父のこの壮絶な体験は昔話などではなく自分の生まれたほんの20年前の同時代の出来事であったこと。
記録によれば青森空襲による死者は1,018人。
その84%が防空壕で亡くなられたという。
もし、父があの時に防空壕に入ることができていたら…
今の自分もこの世に生きていない。

それがあって今の平和があることを忘れてはならないと、外から聞こえてくるセミの鳴き声を耳にするこの時期になると思う。
正に九死に一生を得た父のこの体験。
もっと心の底の想いを一緒に酒を飲みながら聞いてみたかったと思うが
それはもう叶うことは無い。

最後に上記にリンクをはった青森市のHPの青森空襲の記録によれば…

アメリカ軍による爆撃は、鉄道や水力発電所などの戦略的に重要な場所よりも、非戦闘員の殺傷を目的とした都市無差別爆撃を優先していたと評価されています。7月28日の青森空襲においても、この評価を裏付けるように青森操車場はほぼ無傷で残されたといいます。
一方、爆撃機はまず青森市の市街地を囲むように爆撃して人々の退路を遮断し、その後囲んだ内側を焼夷弾で徹底的に爆撃しました。街中は火の海となり、また身体に直撃して即死となることもありました。こうして、人的被害は甚大なものとなったのです。そのため、7月28日の青森空襲は、戦略的には価値のない、日本人の戦意を喪失させることが目的の無差別な空爆だったといわれているのです。
(以上 抜粋)

こんなことは繰り返されてはならない。