私が社会人デビューをした1990年頃。いわゆる「ワープロ」というものが全盛時代でした。比較的に得意としていた私は喜んで企画書なるものをワープロを駆使して作成してはオリジナル資料として提出。そうすると当時は「やっぱり、活字って迫力あるよね!」なんて評価されていました。しかしながら時は変わり21世紀となると、インターネットが普及し、パソコンやスマホが当たり前になりワープロは死語となりその姿を見ることはなくなりました。
それに伴い、活字は当たり前に世の中に溢れかえり、却って印字された企画書、手紙は読み飛ばされる…どころか読んですらももらえないというくらい存在感の薄いものになった感があります。この30年の時を経て現在ではむしろ「手書き」の方が迫力を持って受け止めてもらえる…そういう時代になりました。
これは何故でしょうか?
EメールやSNSという手段はとても便利で有益なものだと思いますが、手書きの手紙を開封する時のあのわくわく感はなんでしょうか?
それはやはり相手の「こころ」が籠められているからだと思います。
私は八戸から地元千葉県の犬吠埼までの太平洋沿岸部を歩いて感じたことはこれと同様のものでした。
当時震災の傷跡も生々しく残っている時期だけに、沿岸部を一人で歩く人なんてほんとに珍しい頃でした。
自分が好きで歩いているにも関わらず、東北の沿岸部を歩いて出会った方々はそんな私を見て、一様に喜んでくれるのです。いろんなことを教えてくれたり、手を差し伸べてくれたり。人に出会えることに感動を覚えました…。
都会で過ごしていると、時間に追われ、雑踏の中で人が近くにいることすら疎ましく感じる毎日。人に感謝したり感謝されたり…こういう感覚がとても新鮮なことに感じました。

産業革命以後、文明は人類に計り知れない恩恵を与えてきました。
かつてはすべて人間の手にかけなければできなかったことも、機械化が進むことで人は自分でやらなくても、今では機械がやってくれます。車や電車、飛行機など目的地までの所要時間は自らの脚も使うことなく飛躍的に短縮されました。
GPSやインターネットやらが普及して、方角がわからなくても目的地まで辿り着くことができるようになりました。
ただ果たしてこれは本当に人間を幸福にするものなのだろうか?
効率を優先するという一面で考えれば確かに有益ではあるものの、今の世の中、日常の常識では歩かない距離を実際に歩いてみてふと思ったことは、文明や便利というものは人間の持てる能力をどんどん人類自らが放棄していっているのではないかということでした。身体能力として普通の人間ができることまでも機械任せにしてしまう。
すべてネットで調べれば情報が簡単に引き出せるために自分で思考することもしなくなる。
かつては風や匂い、音、触感…人間は「感覚」をフルに活かして生活していたはずです。
これこそが人間が持つ特有の能力であるのに、それを退化させてしまっている。

AIにいかに対抗していくのかというようなことが昨今良く言われますが、いまでこそこれに対抗するのは、アナログな能力であり、いわゆる「五感」を敏感に、研ぎ澄ませることなのではないか…。
これが人間の最大の武器ではないかと思うのです。
危険を察知する能力。これにも感覚が重要です。
空気が読めない人を「KY」と言ったりしますが、そういう人もその退化の一現象なのではないでしょうか?

首都圏からほんの数百キロではありますが、東北の沿岸部はその五感を磨くには持って来いの「気づき」と「学び」の宝庫でした。
人生終盤戦に差し掛かりましたが、この一連の活動を通じこの発想に至ったことはとてもラッキーだったと思っております。
人類が脳みそだけでよい…という無機質な時代にならないように。
今でこそ、今だからこそ、若い人たちにはこのアナログな感覚を大切にしていって欲しいと願っております。