「久々の連絡がこんな話で悪いんだけど、ガンになっちゃった」
兄からメールが届いた。

平成26年の5月頃だっただろうか?
メールの内容にあるように、数年間やや疎遠になっていた。
兄弟仲が悪かったわけではない。
ただ両親との確執等。何かと複雑な家庭環境の狭間で中和剤のように過ごしてきた(つもりの)私であったが、母の死去後は父の介護を私が主に担当する立場となると、その狭間で右往左往するのが正直煩わしくもあり、かつてのように連絡を取り合う関係が徐々に薄まってしまっていた…というのが実情だ。

兄は本当にやさしく強い男だった。
へっぽこな子供だった私に色々と自信を持たせようとしてくれていたんだなと今振り返ると気付かされることがある。

そんなへっぽこな弟から見る7つ上の兄は優しくも「強い男」の象徴で憧れでもあった。

そんな兄の事であったので、「ガン」更に「ステージ4」という強烈なキーワードがあれど
克服してしまうのではないか、いや、絶対克服できるはずだと思ってしまう自分がいて、兄の体に寄生した病魔はその後も転移を繰り返し、数度の壮絶な手術をもたらすも、私は「兄の強さ」を信じ続けていた。


少々疎遠になっていた兄弟が、このメールを境目に、先ずはメールのやり取りから再開したのだった。

ここから兄の壮絶な闘病が始まった。(平成26年6月12日〜 最初の入院)

ただ、その間も父の介護は存在し、私はせいぜい兄が入院するタイミングでお見舞いに行って他愛のない話で終始する程度のことしかできなかった…いや、しなかったのだ。
ガンに冒されて以降、両親に対する苛烈なまでの言葉が、私の顔を見れば口について出てくるようにもなってきて、私もその場にいるのがいたたまれず、早々に切り上げてしまうという事情もあった。
そんなこともあり、苦しい闘病期間中に私自身はなんら兄を支える事はできていなかった。

一緒に過ごしていなかっただけに日頃の苦しみも知らず、無責任ながら、いつかは回復していくものなのだろうと考えて悪い事は意識しないようにしていたのだ…と思う。

しかし、その病魔は兄への攻撃の手を緩める事はなく症状は悪化の途をたどる。

その後、4年弱。必死の闘病を続けたが、

その病魔は、あらゆる部分に魔の手を伸ばし呼吸すらもままならない状態になる。


そして…

【平成29年11月20日】
呼吸の状態が思わしくなく、病院で検査のまま即入院となった。

【11月29日】
そして快方…とはならないまでも一旦退院。

【12月2日】
しかし呼吸困難に陥り、救急搬送の上、再入院。

【12月5日】
ついに緩和ケア病棟に移る。

緩和ケア病棟…?
それって……と頭をよぎる。

しかし兄は知ってか知らずか口からは前向きな言葉ばかり。

緩和ケア病棟の意義を考えれば、今、やれることをやっておかなければ…と決意した。
とにかく短時間でも毎日のように通おう。
病院が私の仕事場から近かった事もあって、これは容易いことだった。

この日は兄の好物である
岩手県の岩泉ヨーグルトを入手し、それを届けることにした。

早速開封して器に分ける。
美味しそうに食べてくれた。
届けた食材でちゃんと消費されたものはこれだけだったように思う。
悲しいかな普通のものが呑み込めなくなってきているのだ。

ここでは、かつての兄弟の会話だった。私も気持ちが落ち着く。

昔から話題に出ていた「東北での作品展」の話題になる。
「そうそう、福島ですっごく良い古民家の施設があって、そこで提案したらやらせてもらえそうだよ」と私。
「やりたいなぁ。みんなでキャンピングカーで行って旅行にしたい。」
「よくなったら計画しよう、でも先ずはできたら今月どこかでやれるように考えよう」
との会話の結果、とりあえずの作品展の実現へ向けて早速動いてみようということになった。
ふと、この年の3月に偶然にも、この病院の施設内で開催されていたイベントがあり、参加したことを想いだした。あの病院施設内のホールを提供してもらえないものか?

【12月6日】
病院の医療福祉支援室に相談。

結果、病棟の方とやり取りすることになった。
病院も実現する方向で検討してくれるようだ。ありがたい。
兄の容態も鑑み、外出は難しい。結果、緩和ケア病棟のフロアの会議室を提供してくれることになった。

日程は一日も早い方が良いとは思ったが、その間に兄の希望により一時帰宅の予定もあり、2週後の12月24日〜25日で決まる。
とにかくその日までに最悪の事態にならないように祈った。

それからは手からスマホが滑り落ちてしまうくらいに日々衰弱していく様子が見られたものの本人も作品展を楽しみにしている様子で、何を飾ろう、あれも見せたいなというやり取りが私も嬉しかった。というか、これから迫りくるであろう?事態を直視せずにいられる分、兄とのこの時間がとても前向きに過ごせる事ができ、精神的になんとか普通でいられた。

作品展は突貫工事でもあり、更には素人作業でもあるため、自宅のプリンターで印刷した写真を簡単な額装を施してやる程度のものしかできない。
しかし、その分、温かい作品展にしたい。兄の喜ぶ顔をぜひ見たい。
緩和ケア病棟の医療スタッフの方々も非常に協力的だ。
病院内で配布するチラシやポスターを作成しますので、どんな題名にしますか?
等と聞いてきてくれた。

私も飾り付けやら買い物やら開始。

【12月14日】
予定通りの一時帰宅。介護タクシーを使っての大移動。

愛犬やまくんとも久々に会えたようだ。
「なんか今回はドライなんだ」
とメールがきた。
しかし翌日には病院に戻らねばならず、やまくんもその事情に気が付いていたのかもしれない。

【12月17日】
兄から「少しヤバいことになってきた」とメールが届く。

「?」と思い、尋ねると兄の妻が倒れ、要入院とのこと。
この半月以上連日、兄の元へ通い続けた上に、一時帰宅の際には一泊とはいえ容態の急変も意識しながらのケアで心身ともに影響が出ても無理はない話だ。

「来年に延期するか。」と兄。
「いや、もうあと一週間。これは僕らだけでも実現しよう。」と、決行の方針で伝える。
…決行しなければ、何もかも間に合わなくなるかもしれないんだよ…
…と心の中でつぶやいた。

【12月某日】
病棟内でも12月25日にはクリスマス会が企画されていた。
各部屋にはそのチラシが貼られている。医療スタッフの方々による、かくし芸等の披露があるようだ。

「俺も今年は無理だけど、体が戻ったら(出し物側として)参加するよ。お前も何かやれよ」
なんて笑顔で言う。
「とうとう体重が30キロ台」なんて言いながらも意欲満々である事が却って悲しい。
田舎から送ってきたミカンや柿といった果物類を見せる。
「どれか食べる?」と聞くと
なぜか柿に指を向け意外なご指名。
「了解、ちょっと待ってて」
キッチンへ行って、皮をむいて本人へ差し出す。
一口、口へ運ぶ。
…苦笑いしながら首を振って、皿へ戻す。
「好きだったっけ?」
「いや、食べてみようと思っただけ…」

このやり取りは不思議に印象に残った。

【12月18日】
病室を訪れる度に衰弱していく様子が見てわかる。

この日は私の誕生日。
夕方、病室で作品展の打ち合わせ。
声も出なくなってきたため兄からの指示はメモ書きだ。

(手造りウレタンジャミラの展示方法についての指示メモ書き)
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「また明日来るね」
と、病室を後にする。

夜、自宅で布団の中で0:00を迎えた。12月19日。
日付が変わった…。
必ず毎年来ていた兄からの「誕生日おめでとうメール」。
が、今年は、とうとう届かなかった。

この日を最後に…メール自体が来なくなった。

病棟内での作品展まで一週間を切った。

兄との久々の共同作業。一緒になんとか実現したい。

病棟スタッフと打ち合わせ。
会場の設備等も確認。
12月23日土曜日に作品を搬入。そして準備と決まる。

しかし…

【12月21日】

仕事中に病院からの着信があった…。

「?なに?」
と胸騒ぎ。
折り返し、電話をする。

「先ほど、呼吸が止まりました」…と。

一番、聞きたくなかった言葉だった。
この日も仕事を終えたら行くつもりだったのに。
午前中までは医療スタッフに気遣いの言葉をかけたり等、落ち着いている様子だったとのこと。

病室で独り息を引き取ったなんて寂しすぎるではないか。

当然ながらすぐに兄の元へ向かう。

15:30 1565室。到着。
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窓からは入院中に飽きるほど見たであろう夕陽に染まった東京の景色が広がっている。
静まり帰った病室もオレンジ色。しゃべらぬ兄がそこに横たわっていた。
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部屋で待っていると、担当医が最後の診察に。
平成29年12月21日 16:40 兄の制度上の死亡時刻。
作品展は、この時を以て開催を目前にして中止となった。

この日は一旦、帰宅…そのまま帰る気にもならず、駅前で軽く…。
なんとなく気分で二杯テーブルに並べた。
2杯のビール 前に一緒に飲んだのはいつだったかな?


【12月23日】
 作品展 前日

本来、作品搬入予定だったこの日。
兄が病院から搬送される日に変わった。

せめてあと数日。
いや、作品展初日の日まで良いから、神様なんとか配分してくれても良いのでは…
と神を恨んだ。
これでは、兄が可哀そうすぎるではないか。
…と本気で思った。

ただ時間の経過と共に
これはもしかしたら私に対する神の罰なのだと気付いた。
作品展を実現して兄を喜ばせようというのは自分の自己満足だったのではないか。
晩年、病に苦しむ兄を支えることもせずに、遠ざかって(けて)いたお前が最後の最後に突貫工事で穴埋めなんて虫が良すぎるでしょ…と。

神様がそういう配剤にしたのだと思えば腑に落ちたのだ。
誰がなんと言おうと、その方が納得できた。
そうでないと道理が合わない。

兄は本当にやさしく強い男だった。

一番、支えるべき時に何もしてやれなかったけれど…

最後のこの一か月。
心残りはあれど、忘れていた、途絶えていた兄弟としての会話ができたのが、勝手ながら私としては嬉しかった。
もっと早くになんらかの形でも「作品展」の計画をすべきだったのだと思う。

最後に一言「ありがとう」と伝えたかった。
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最後に

兄は本当にやさしく強い男だった。

でも、内面はとても純粋過ぎるほど純粋で、傷つきやすいのだ。

体を鍛えて武装するのに余念がなかったのは、それを覆い隠すためだったのかもしれない。

しかし、数年前に兄の体に宿った病魔は、その鎧を次々と破壊していった。

兄はそれに果敢に立ち向かった。剥がされた鎧を何度も取り戻そうと…

闘病期間3年7か月。
総入院日数は344日間に亘る。

どんなに痛くても、素振りにも見せない兄が緩和ケアの病室で
「たすけて…」と呻いていたという。

どれだけの苦しさだったのだろうか…?


しかし、この約5か月後に、多くの支援者の方々の協力を得て兄の自宅のほど近くの
カフェギャラリーにて作品展を実現することができた。
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私は、この作品展実現へのプロセスの中で、協力を申し出ていただいた実行委員の方々と兄との強い絆を感じた。

羨望を覚えるくらい。
写真道場での講師と教え子との心の交流の証。

最後の肉親である私が何もしなかった間
晩年の兄を支えていたのは、妻であるYさん。
実行委員の皆様、そして愛犬やまくん。
そして、この作品展に足を運んでいただいた方々。
このたくさんの方々の存在がなければ、ステージ4から始まった兄の闘病生活はもっと早く終わってしまっていたのではないかと想像する。

心より御礼を申し上げたい。


作品展のためにしたためた手記。
一年が経過し加筆訂正し、ブログにて公開させていただいた。

兄に負けじと53歳にてキックボクシングを始めました(笑)

(作品展で寄せられた兄へのメッセージ)
クリスマスを目前に息を引き取った兄へ遅ればせながらのクリスマスツリーが、温かいメッセージと共に完成した。
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